田舎へ 後編
今回の滞在は短かった。
16日の夕方に着き、17日の夕方には出る。
先に帰省していた母から言われた「24時間もこの家にいない」という皮肉が刺さる。
今回の目的は祖母に会うのは勿論、祖父の墓参りといつもの散歩ルートをカメラを持って歩く事だ。
全部やって尚且つのんびり過ごす時間も欲しかった為、朝は早起きだ。
祖母の朝ごはんはとても美味しい。
別に朝ごはん限定で料理が上手いなんて訳では勿論なく、朝ごはんは普段食べない僕が楽しみにしてしまう、そんな魔法がかかっている。
朝ごはんを済ませて、少しのんびりして母と一緒に墓参りに出る。
台風は過ぎ去り文字通りの快晴。
暑い中歩いて10分ぐらいの墓地まで行く。
小さい頃は墓参りもよくわかっていなかったが、今なら意味を考えられる。
人それぞれの死生観は違うが、お墓という共通認識は人々にとって必要なのだろう。
祖父には何人か兄弟がいたが、内2人は大人になる事なくこの世を去った…
このお墓もその内管理する人がいなくなってしまうから取り壊さないといけない…
そんな話をしてお墓を後にする。
帰り道、僕は心の向くままにシャッターを切り、母は何も言わず先に行く。
後ろ姿が目に入る。
年を取ったな。
僕が人の死に立ち会ったのは23の時が初めてだった。
ここ、栃木に住む祖父が亡くなった。
報せを聞いた時は「そうか…」しか言えなかった。
ドラマや映画などでのイメージでしか葬式や通夜を知らない。
栃木までの飛行機の中、実際に祖父の亡骸にあったら自分はどうなるんだろうと思っていた。
大泣きするのだろうか。気丈に振る舞おうとするのだろうか。
答えはどれとも違った。
祖父の亡骸を見ても「あれ?」と思うだけで不思議と悲しさなどはなかった。
そこに横たわっているのは祖父ではないとすぐにわかった。
身体はあくまで身体だった。
ドラマ宜しく亡骸に話しかけたりする人もいたが、それが不思議でならなかった。
そして魂と呼ぶもの、祖父が祖父である為のものは、きっとこの自然に迎えられたのだろうと思った。(しかしこの考えは身体を見た時に思った事より確たるものがないが)
だから悲しいというよりは良かったという感情があった。
当然会えなくなるという事実は噛みしめると悲しい。
しかし外に出ていつもの散歩コースを歩き、この中に祖父は迎えられたのかと思ったら悲しくはなかった。
この歩く道はいつも変わらない。
しかし僕は来る度に変わっている。
通る度に考えることは違うし、その時々で悩みや好きな事も違う。
僕も大好きなこの自然に迎えられたらどうなるだろう。
夕方になり、祖母に挨拶を済ませて家を出る。
様変わりした近所に昔と変わらない所を見つけながら駅まで歩く。
宇都宮までの電車の中、脳がゆっくりゆっくりと切り替わっていく。